日誌

鉛筆 道はいつも ひらかれている。〔3学年掲示板〕

 「道はいつも ひらかれている」という古谷綱武氏の詩が、3学年掲示板にあります。“ 自分の人生は、自分が
どう思って生きるかで切り開いていけるのだ”  この掲示板の前を通るたびに、励まされています。

 

道はすべての人の前にひらかれている。その人に、やる気があるかないかだけである。

道はすべての人の前にひらかれている。しかし、道が閉ざされていると思う人の前に道は閉ざされている。自分はだめだと思う人はだめになっていく。

道はすべての人の前にひらかれている。しかし、自分が生きていくべき人生は、自分で発見していくよりほかにないのである。

道はすべての人の前にひらかれている。しかし、生きがいと幸せとを、つかみあてるその鍵は、自分の心の姿勢の中にだけしかない。

道はすべての人の前にひらかれている。しかし、個性のない人生は、真実の人生ではない。たとえ優れた人のまねをしても、まねをすることでつかみあてられる「自分の人生」というものは、この世にはないのである。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、人生を暗く生きようとする人には明るい人生も暗くしか生きられない。人生を明るく生きようとする人だけが、暗い人生さえも、明るく生きていくことができるのである。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、自分から諦めてしまうことは、もはや生きることではない。その人の前では道もとざされる。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、人が一度でやり遂げることが、自分には、一度でやり遂げられないこともある。一度でやり遂げられないことは、十度やってみよう。十度やってもやりきれないことは百度やってみよう。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、やり遂げるまでは決して諦めないこと、そしてそのやり遂げようとするその心を決して失わないこと。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、見栄や虚栄心、憎しみや恨み、欲の深さや身勝手な自分本位、そうしたものに心を縛られていると、その心の束縛の不自由さによって、その人は、自分から自分の道をとざしてしまうことがある。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、求める心があるならば、恥をかくことは決しておそれまい。軽薄な虚栄心などに心を縛られまい。また、人を憎むことから得られるものは何もないことも、良く知っていよう。欲の深さは、かえって失うことが多いことも知っていよう。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、自分から自分の道を閉ざしてしまうような、そういう自分の中の一切のものを、自分から捨て去っていくことが大切である。それを捨て去ってしまったとき、本当の自分が生まれてくる。道がひらけてくる。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、すぐに簡単にわかった気持ちになってしまうのは、危険である。一だけを考えて一がわかったと思うのは、本当に分かったことではない。百考えてやっと一が分かったというのが、本当の分かったということである。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、いつも、柔らかい頭をもって、早く判断する人でありたい。一だけを考えて、決して誤ることなく、たちまち一の判断ができるのが、生活力とよんでよいものである。ただそうした早い判断が、いつも誤りでなくできるのは、その人が百を考えぬいてきた蓄積を、心の中に持っているからなのである。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、よいことを確かに良いとわかり、悪いことをたしかに悪いと分かることが大切である。しかもそれは、本当は、それほど易しいことではないのである。その難しさを良く知った人でありたい。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、悪いことが確かにわかるためには、良いことが確かに良いとわかる以上の、教養とセンスが必要である。そのことも、良く知っていたい。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、絶えず、知ろう、学ぼう、考えよう、とする意欲をもたなければ、人はその自分の人生の道を、歩き進む力を失うであろう。知り、学び、考えていくことが、自分の人生の道を歩いていくことだからである。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、人によっては、自分にとっての一番やさしい道しか、歩こうとしない人もいる。だが人によっては、自分を育て続けていくために、一番難しい道の方を、一生懸命に歩み続けている人もいる。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、そこで、権利意識ばかりをむやみにふりまわして、まったく停滞した空虚のなかだけに身をおいている人もいる。そうではあるがしかしまた、人間としての権利の意識をまったく自覚していない人は、とかく大切な責任の意識にも欠けている場合が少なくない。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、したいことだけして、しなければならないことは、なかなかやろうとしない人もいる。しなければならないことこそを、まず行う人になりたいものである。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、この人生はまたその別の一方では、人にその道を見失わせるほどの誘惑と失望とのくり返しにも、満ち満ちていることを忘れてはならない。道は平坦ではないのである。それだからこそ、人生という道の味わいは深いのである。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、世間に自分というものを誤りなくわかってもらおうなどという期待は、もたないほうが良い。そうした期待に生きたいのであったら、世間の因襲に全面的に屈服して生きるよりほかにないのである。それは自分のない人間になることである。

わかってもらえようともらえまいと、そんなことは問題にしないで、あくまでも、自分の真実にこそ生き貫いていこうとするとき、世間というものは、案外思いがけなく、かえって自分を理解してくれるものなのである。

  作 古谷 綱武