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清水中の歩み Episode1

   本校の「学校沿革誌」の最初に,本校創設までの経緯が記載されています。

   職員玄関を入ると,右手前方(事務室の向かい)の掲示板に額に入った一枚の書が掲示されています。【写真2】書かれている文字は「自我作古」。清水中学校の初代校長であった林喜六先生が掲額した書であると思われます。

  「自我作古」という言葉は,1858年に福沢諭吉によって創立された慶應義塾大学において,「独立自尊」とともに,建学の精神の中心をなす考え方でした。「我より古(いにしえ)を作(な)す」と読みます。「自分が歴史を創り出す」との,壮大な気概があり,「自らが集団の中で手本となって,周囲に良き道を示し,礎となる」との意味で,福沢諭吉は好んでこの言葉を使ったと言われています。
  林校長先生は,清水中学校の開校にあたり,生徒のみならず教職員に対してもこの「自我作古」の精神をもって,新たな伝統を築き上げて欲しいという願いを込めて学校運営にあたられていたことが想像されます。(在職期間:昭和59年4月~平成元年3月)
   下の地図は,開校当時の学区の境界線を示したものです。もちろん西道路は開通していませんし,清水中学校の周りにはほとんど住宅は見られません。当時既存の中学校,北は信陵中学校,西は野田中学校,東は福島第四中学校との学区の境界線をどこに引くか苦労した様子がうかがえます。松川という自然境界線,「南沢又」「泉」といった地区の境界線はもとより,八島田街道などの道路や東北本線,奥羽本線というJRの線路が複雑に関係しながら清水中学校の学区が決定されたようです。