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清水中の歩み

清水中学校の歩み

Episode 7   新しい制服の導入

 令和6年度新入生から新しい制服の導入が決まりました。これは令和3年度に生徒会から発議があり検討を重ね、令和4年度から新制服導入についての委員会を発足させました。生徒会本部、生徒会生活委員会、PTA本部、教職員で構成された委員会でした。

 令和5年度に実施される「学校創立40周年記念事業」の一環として行われることにもなり、10月21日(土)に行われる「学校創立40周年記念式典」に新制服を披露すべくスピードを上げ新制服が決まりました。

 

     男女ともにブレザーを採用。      女子はスカートのほかにパンツも選択できます。

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清水中の歩み Episode6

  今の3年生の修学旅行は,福島市立の中学校としては初めて,2年生であった昨年度の3月,卒業式の翌週に実施されました。筑波研究学園都市を見学するなど,例年になく特色ある修学旅行となったようです。
   卒業アルバムをたどってみると,清水中学校の修学旅行は,創立された昭和59年度から現在まで,東京を中心とした関東方面というのが定番となってきたようです。例外であったのが平成9,10年度の修学旅行です。この2年は北海道を旅行先に選択しました。札幌や小樽を拠点として道東の観光地を訪れたり,白老町でアイヌ民族の文化に触れています。
  福島市の他の中学校でも,平成5年の福島空港の開港以降,当時定期便が就航されていた北海道や沖縄を訪れたり,近年は東北・東海道新幹線の時間距離の短縮やユニバーサルスタジオジャパンの人気にともない,関西方面へ出かける中学校も増えたりしています。しかし,費用面はもちろん,行き先での滞在時間を長く確保でき,多くのオプションが考えられる関東方面での修学旅行は,三日間という日程を考慮すれば,ベストの訪問先であると私は考えます。
   同じ関東方面の修学旅行でも,訪問先や内容には多少の変化が見られます。創立した昭和59年度から平成8年度までは,鎌倉(江ノ島)から横浜を経由して東京へ入るといったコースが定番でした。昭和58年に開園した東京ディズニーランドには,平成2年度の修学旅行で初めて訪れています。それ以来,現在に至るまで修学旅行では外すことのできない人気スポットになっています。(平成13年度に東京ディズニーシーが開園して以降は,ランドとシーの選択制を導入しています。)さらに,企業訪問を実施したり,様々な体験活動を取り入れたり,ナイターやミュージカルを見学したりと,年度ごとに創意工夫をこらしたプログラムが実施されてきました。
  平成23年度の修学旅行は,東日本大震災により,予定されていた4月から8月31日~9月2日に変更して実施されました。卒業アルバムに掲載されている夏服でのスナップが印象的です。夏場の旅行ということもあり1日目は,涼しい山梨県河口湖にあるペンション村に十数人ごとの小グループで分宿しました。各ペンションごとに趣向をこらした体験メニューを楽しんだようです。
  今の2年生の修学旅行は,令和2年3月17日(火)~19日(木)に実施します。行き先は東京を中心とした地域で,来年開催される東京オリンピック,パラリンピックに関係する施設の見学などが予定されています。詳細につきましては,今後,教師と生徒の実行委員との話し合いで決定されます。
  修学旅行にかかる費用は年々増加する傾向にあります。教育費に関する保護者の負担軽減が叫ばれる中,この行事がなくならないのは,修学旅行が持つさまざまな教育的効果を期待してのことであることは間違いありません。「どこへ連れて行く。何を見学させる。」のみならず「どこで学ばせる。何に感動させる。」という教師の思いがしっかりと込められた行事となるよう,見通しを持って計画していきたいと考えます。

 

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清水中の歩み Episode5

  上の図は,清水中学校の主な学校行事を,開校間もない昭和60年代と本年度とで比較したもので,改めて比較すると多数の行事が削減されてきたのだと思い知らされます。特に体育的な学校行事はことごとくなくなりました。
   では,これらの行事がいつ頃,どのような背景で消えていったのでしょうか。変遷をたどると,その主な要因は,国の教育施策の転換等に伴う,授業時数の削減や学校週五日制の導入が大きく影響したことが分かります。昭和56年度から実施された学習指導要領では「詰め込み教育」や「偏差値教育」から「ゆとり教育」への転換が図られ,週の授業時数が前年度の34時間から30時間に減少しました。そのため,今当時を振り返ってみると,学校週五日制が導入される平成4年度までの開校から8年間は,様々な学校行事を実施する余裕があった,まさに「行事の黄金年代」であったといえます。私が教員として採用されたのは昭和60年度ですが,様々な行事に追われ苦労した思い出よりも,授業以外の場面で生徒と共に汗を流したり,ゆったりとした時間を過ごしたりした楽しい記憶が数多く残っています。特に校外における活動においては,授業中では気付くことのできなかった生徒の良さに触れることができ,教師として多面的に生徒と関わる大切さを学ぶことができました。できることならば,復活させたい行事も数多くあります。
   なお,学習発表会から名称を変え,平成7年(1995年)に第1回として開催された青柳祭は,本年度で25回目を迎えます。当時の卒業アルバムを開いてみると,その内容は,今年も行うステージ発表や合唱コンクール,展示見学のほか,校内弁論大会や綱引きなどのイベントも同時に行われていたようです。
  学校週五日制が平成4年度から月一回,平成7年度から月二回と段階的に試行され,平成14年度に完全実施となりました。週の授業時数も28時間まで減少しました。これに伴い,平成4年度にはスポーツテストと水泳大会,そして芋煮会が,平成7年度には陸上競技大会が学校行事から姿を消しました。(芋煮会は平成19年度に復活し,平成24年度まで続く。陸上競技大会は平成10年度に復活し,平成24年度まで続く。)平成7年度にはふくしま国体が開催され,全国トップレベルの競技者が福島県の体育教員として採用された時期であっただけに,体育行事の削減は残念なことでした。
  清水中の歴史の中で,最も特色ある行事は,平成12年から平成20年まで1年生を対象に実施した尾瀬自然体験教室です。学校の教職員のみならず保護者や地域の方々および現地の方々の協力をいただきながら実施された行事であったと聞いております。平成14年度から福島市は,2年生による五日間の職場体験活動を導入し,現在に至っています。かつての尾瀬自然体験教室や職場体験活動を核とした「中学生ドリームアップ事業」のように,保護者や地域の方々が参画し,協働で実施できる活動を拡大していくことが,これからの学校経営に必要とされてきます。地域を巻き込んだカリキュラム・マネジメントが一層重要な時代となってきます。
   社会の変化や安全性を考慮して見直された行事もあるとは思いますが,30年前の清水中学校と今の清水中学校とでは,生徒にとってどちらが魅力ある学校なのだろうか?授業や部活動以外で,子どもたちの笑顔が弾ける場面はどのくらいあるのだろうか?記録を整理していく中でそんな思いが込み上げてきました。

 

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清水中の歩み Episode4

  1984年(昭和59年)4月,清水中学校は全校生648名(男322名,女326名,通常学級15クラス,特別支援学級1クラス)でその歴史をスタートさせました。この時期は,昭和22年から24年にかけて起こった戦後の「第一次ベビーブーム」で誕生した子どもたち(数年前大量退職を迎えた「団塊の世代」と呼ばれる人たち)の世代が結婚,出産し引き起こされた「第二次ベビーブーム」の子どもたちが中学校に在籍した時期にあたります。この世代は「団塊ジュニア」とも呼ばれています。ピークの年である昭和61年度は,全校生705名,通常学級が1学年が5クラス,2・3学年が6クラスあり,1学年は1クラスがすべて45名,2・3学年は38~40名いう学級編成でした。また,空き教室はなく,現在の相談室も普通教室として使用されていました。
   グラフを見ると,昭和61年度のピーク以降,本校の生徒数は徐々に減少し平成2年度には600名を,平成7年度には500名を下回りました。そしてついに平成19年度には395名と400人を割り込みましたが,ここから徐々に生徒数は増え始め,平成23年度には再び500人を超えました。これは平成元年に一部開通し,その後延長,平成9年に全面開通(一旦)した福島西道路建設にともない学校周辺の宅地化が進んだことが要因の一つと考えられます。しかし,平成23年度をピークに生徒数は再び減少(東日本大震災と原発事故が多少なりとも関わっていると推測される)することとなり,本年度は417名(男220名,女197名,通常学級14クラス,特別支援学級3クラス:5月1日現在)となっています。ただ,福島市内で比較すると,周辺部の学校ほど減少率は大きくありません。
   現在の学級編制を維持するためには,最低でも各学年で120名以上,全校では400名前後の生徒数が必要となります。学年3クラスとなれば,学校行事などの学級対抗戦では,張り合いが薄まることは否めません。部員の確保も困難な部活動が出てきます。清水地区に若い世帯が増え,小・中学校の在籍数が,今後も現在の状況を確保できるよう願ってやみません。

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清水中の歩み Episode3

    校歌制定の経緯については,「学校沿革誌」に記載されています。

   福島県はもとより,日本全国の学校の校歌や応援歌を,草野心平氏は100校以上,古関裕而氏は300校以上手がけています。福島市内で草野心平作詞,古関裕而作曲の校歌が残る小学校は,北沢又小,蓬萊東小,森合小と三校ありますが,中学校は清水中のみです。日本全国でも他にはありません。(ちなみに,古関裕而氏が校歌を作曲した福島市内の中学校は,本校以外に北信中,福島四中,松陵中,吾妻中,蓬萊中の5校です。) 

   草野心平氏が,本校に来校し視察を行ったのは10月8日。上空の澄み渡る秋晴れの空を「青絹」と表現し,西方に目をやり眼前に広がる吾妻・安達太良のパノラマを「遠き山脈(やまなみ)」と無駄のない簡潔な言葉で歌詞に盛り込みました。また「学舎は光りにあふれ」のフレーズは,当時斬新であった二階の天窓から注ぐ太陽光を表現したのではないでしょうか。福島県が生んだ二人の偉大な芸術家の手による本校の校歌は,清水中に在籍した仲間との絆の証として,在校生のみならず同窓生達によって,これからも「元気溌剌」と歌い継がれていくことでしょう。

 

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清水中の歩み Episode2

   校章のデザイン選定の経過や由来に関しては「学校沿革誌」に記録が残されています。  開校前の昭和59年1月,市内の中学校に勤務する3名の美術の先生にデザインを依頼,2月に3名が持ち寄った校章デザインについて審議を行いました。その結果今泉清司先生(北信中)が制作した作品が選定され,一部改訂し校章としてデザインされることとなりました。
   校章の由来と色彩については,「学校沿革誌」の記載内容を原文のまま引用します。

   残念ながら今は,帽章もバッジも使用されていません。かつて清水中生が着用していた帽章とバッジの実物は,校長室前の掲示板に掲示されていますのでご覧ください。

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清水中の歩み Episode1

   本校の「学校沿革誌」の最初に,本校創設までの経緯が記載されています。

   職員玄関を入ると,右手前方(事務室の向かい)の掲示板に額に入った一枚の書が掲示されています。【写真2】書かれている文字は「自我作古」。清水中学校の初代校長であった林喜六先生が掲額した書であると思われます。

  「自我作古」という言葉は,1858年に福沢諭吉によって創立された慶應義塾大学において,「独立自尊」とともに,建学の精神の中心をなす考え方でした。「我より古(いにしえ)を作(な)す」と読みます。「自分が歴史を創り出す」との,壮大な気概があり,「自らが集団の中で手本となって,周囲に良き道を示し,礎となる」との意味で,福沢諭吉は好んでこの言葉を使ったと言われています。
  林校長先生は,清水中学校の開校にあたり,生徒のみならず教職員に対してもこの「自我作古」の精神をもって,新たな伝統を築き上げて欲しいという願いを込めて学校運営にあたられていたことが想像されます。(在職期間:昭和59年4月~平成元年3月)
   下の地図は,開校当時の学区の境界線を示したものです。もちろん西道路は開通していませんし,清水中学校の周りにはほとんど住宅は見られません。当時既存の中学校,北は信陵中学校,西は野田中学校,東は福島第四中学校との学区の境界線をどこに引くか苦労した様子がうかがえます。松川という自然境界線,「南沢又」「泉」といった地区の境界線はもとより,八島田街道などの道路や東北本線,奥羽本線というJRの線路が複雑に関係しながら清水中学校の学区が決定されたようです。

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