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2019年8月の記事一覧

清水中の歩み Episode4

  1984年(昭和59年)4月,清水中学校は全校生648名(男322名,女326名,通常学級15クラス,特別支援学級1クラス)でその歴史をスタートさせました。この時期は,昭和22年から24年にかけて起こった戦後の「第一次ベビーブーム」で誕生した子どもたち(数年前大量退職を迎えた「団塊の世代」と呼ばれる人たち)の世代が結婚,出産し引き起こされた「第二次ベビーブーム」の子どもたちが中学校に在籍した時期にあたります。この世代は「団塊ジュニア」とも呼ばれています。ピークの年である昭和61年度は,全校生705名,通常学級が1学年が5クラス,2・3学年が6クラスあり,1学年は1クラスがすべて45名,2・3学年は38~40名いう学級編成でした。また,空き教室はなく,現在の相談室も普通教室として使用されていました。
   グラフを見ると,昭和61年度のピーク以降,本校の生徒数は徐々に減少し平成2年度には600名を,平成7年度には500名を下回りました。そしてついに平成19年度には395名と400人を割り込みましたが,ここから徐々に生徒数は増え始め,平成23年度には再び500人を超えました。これは平成元年に一部開通し,その後延長,平成9年に全面開通(一旦)した福島西道路建設にともない学校周辺の宅地化が進んだことが要因の一つと考えられます。しかし,平成23年度をピークに生徒数は再び減少(東日本大震災と原発事故が多少なりとも関わっていると推測される)することとなり,本年度は417名(男220名,女197名,通常学級14クラス,特別支援学級3クラス:5月1日現在)となっています。ただ,福島市内で比較すると,周辺部の学校ほど減少率は大きくありません。
   現在の学級編制を維持するためには,最低でも各学年で120名以上,全校では400名前後の生徒数が必要となります。学年3クラスとなれば,学校行事などの学級対抗戦では,張り合いが薄まることは否めません。部員の確保も困難な部活動が出てきます。清水地区に若い世帯が増え,小・中学校の在籍数が,今後も現在の状況を確保できるよう願ってやみません。

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清水中の歩み Episode3

    校歌制定の経緯については,「学校沿革誌」に記載されています。

   福島県はもとより,日本全国の学校の校歌や応援歌を,草野心平氏は100校以上,古関裕而氏は300校以上手がけています。福島市内で草野心平作詞,古関裕而作曲の校歌が残る小学校は,北沢又小,蓬萊東小,森合小と三校ありますが,中学校は清水中のみです。日本全国でも他にはありません。(ちなみに,古関裕而氏が校歌を作曲した福島市内の中学校は,本校以外に北信中,福島四中,松陵中,吾妻中,蓬萊中の5校です。) 

   草野心平氏が,本校に来校し視察を行ったのは10月8日。上空の澄み渡る秋晴れの空を「青絹」と表現し,西方に目をやり眼前に広がる吾妻・安達太良のパノラマを「遠き山脈(やまなみ)」と無駄のない簡潔な言葉で歌詞に盛り込みました。また「学舎は光りにあふれ」のフレーズは,当時斬新であった二階の天窓から注ぐ太陽光を表現したのではないでしょうか。福島県が生んだ二人の偉大な芸術家の手による本校の校歌は,清水中に在籍した仲間との絆の証として,在校生のみならず同窓生達によって,これからも「元気溌剌」と歌い継がれていくことでしょう。

 

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清水中の歩み Episode2

   校章のデザイン選定の経過や由来に関しては「学校沿革誌」に記録が残されています。  開校前の昭和59年1月,市内の中学校に勤務する3名の美術の先生にデザインを依頼,2月に3名が持ち寄った校章デザインについて審議を行いました。その結果今泉清司先生(北信中)が制作した作品が選定され,一部改訂し校章としてデザインされることとなりました。
   校章の由来と色彩については,「学校沿革誌」の記載内容を原文のまま引用します。

   残念ながら今は,帽章もバッジも使用されていません。かつて清水中生が着用していた帽章とバッジの実物は,校長室前の掲示板に掲示されていますのでご覧ください。

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清水中の歩み Episode1

   本校の「学校沿革誌」の最初に,本校創設までの経緯が記載されています。

   職員玄関を入ると,右手前方(事務室の向かい)の掲示板に額に入った一枚の書が掲示されています。【写真2】書かれている文字は「自我作古」。清水中学校の初代校長であった林喜六先生が掲額した書であると思われます。

  「自我作古」という言葉は,1858年に福沢諭吉によって創立された慶應義塾大学において,「独立自尊」とともに,建学の精神の中心をなす考え方でした。「我より古(いにしえ)を作(な)す」と読みます。「自分が歴史を創り出す」との,壮大な気概があり,「自らが集団の中で手本となって,周囲に良き道を示し,礎となる」との意味で,福沢諭吉は好んでこの言葉を使ったと言われています。
  林校長先生は,清水中学校の開校にあたり,生徒のみならず教職員に対してもこの「自我作古」の精神をもって,新たな伝統を築き上げて欲しいという願いを込めて学校運営にあたられていたことが想像されます。(在職期間:昭和59年4月~平成元年3月)
   下の地図は,開校当時の学区の境界線を示したものです。もちろん西道路は開通していませんし,清水中学校の周りにはほとんど住宅は見られません。当時既存の中学校,北は信陵中学校,西は野田中学校,東は福島第四中学校との学区の境界線をどこに引くか苦労した様子がうかがえます。松川という自然境界線,「南沢又」「泉」といった地区の境界線はもとより,八島田街道などの道路や東北本線,奥羽本線というJRの線路が複雑に関係しながら清水中学校の学区が決定されたようです。

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